敷津松之宮(大国主神社) [大阪府]
2016/08/12
大阪市浪速区にある敷津松之宮(しきつまつのみや)です。
地元では「木津の大国さん」の名で親しまれており、商売繁盛・縁結び などに御利益があるとされています。
なお、摂社の大国主神社の知名度が高く、町名(浪速区大国)や駅名(大国町駅)の由来にもなっているそうです。
神社概要
由緒
社伝によれば、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐の帰りに務古水門に至った時、住吉大神からの神託を受けて住吉の地に社(住吉大社)を建立したとされ、その後、敷津浜の航行している時に神功皇后に従った武内宿禰(たけうちのすくね)が荒磯浪の岸に潮が打ち寄せるのを見て「今より後、 ここを境として潮満ちよすことなかれ」と言い、渚に松の樹を3本を植え、その松の下に素盞嗚尊(スサノオ)を祀ったことに始まるとされています。そのため、"松之宮"と言うそうです。
その後、平安中期の貞観8年(866年)に、僧・園如が祇園の牛頭天王を播磨国の唐崎より勧請する折に当社に立ち寄ったところ、祭神が牛頭天王と同神(スサノオの本地)であったため、当社も祇園社または牛頭天王社と称したとされています。
祭神
敷津松之宮の祭神は以下の通りです。
主祭神
・素盞嗚尊(スサノオ):三貴子の一柱で、出雲の祖神
・大國主命(オオクニヌシ):国造りの神で、出雲大社の主祭神として有名
→ 『記紀』によって出自は異なるが、概ねスサノオの子孫のオオナムチとされている
→ 七福神の大黒としても知られ、縁結びに御利益があるとされる
配祀
・事代主命(コトシロヌシ):大国主の御子神
→ 七福神の恵比寿としても知られ、商売繁盛に御利益があるとされる
・奇稻田姫命(クシナダヒメ):スサノオの后
・少彦名命(スクナヒコナ):大国主と共に国造りを行ったとされる神
・八柱御子神(ハヤシラノミコ):スサノオの8人の御子の総称(概ね以下の神が挙げられるが、正確な神名は不詳)
→ 八島篠見神(ヤシマジヌミ)
→ 五十猛神(イタケル)
→ 大屋比売神(オオヤツヒメ)
→ 抓津比売神(ツマツヒメ)
→ 大年神(オオトシガミ)
→ 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
→ 大屋毘古神(オオヤビコ)
→ 須勢理毘売命(スセリビメ)
・素盞嗚尊(スサノオ):三貴子の一柱で、出雲の祖神
・大國主命(オオクニヌシ):国造りの神で、出雲大社の主祭神として有名
→ 『記紀』によって出自は異なるが、概ねスサノオの子孫のオオナムチとされている
→ 七福神の大黒としても知られ、縁結びに御利益があるとされる
配祀
・事代主命(コトシロヌシ):大国主の御子神
→ 七福神の恵比寿としても知られ、商売繁盛に御利益があるとされる
・奇稻田姫命(クシナダヒメ):スサノオの后
・少彦名命(スクナヒコナ):大国主と共に国造りを行ったとされる神
・八柱御子神(ハヤシラノミコ):スサノオの8人の御子の総称(概ね以下の神が挙げられるが、正確な神名は不詳)
→ 八島篠見神(ヤシマジヌミ)
→ 五十猛神(イタケル)
→ 大屋比売神(オオヤツヒメ)
→ 抓津比売神(ツマツヒメ)
→ 大年神(オオトシガミ)
→ 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
→ 大屋毘古神(オオヤビコ)
→ 須勢理毘売命(スセリビメ)
関連社
摂社・大国主神社(日出大國社)
敷津松之宮の摂社・大国主神社(おおくにぬしじんじゃ)です。
祭神に日出大国神(大国さん)を祀っており、福徳開運・商売繁盛・家内安全・良縁結びなどに御利益があるとされています。
由緒については、江戸中期の延享元年(1744年)に神託に受けて出雲大社を勧請し、社殿が建立されたことに始まるとされています。これ以来、今宮戎神社と並んで大阪市街からの参拝が多い神社となったそうです。
なお、当社は大阪市内の七ヶ所にある大阪七福神めぐりの一社(大黒天)にも数えられています。
大国主神社の祭神
・日出大国神(大国さん):大国主に同じ
・日出大国神(大国さん):大国主に同じ
その他の関連社
敷津松之宮の境内社は以下の通りです。
・楠稲荷社
・白龍明神社
・敷津松之宮御旅所:西成区松2丁目にある境外末社
・白龍明神社
・敷津松之宮御旅所:西成区松2丁目にある境外末社
境内の見どころ
鳥居
敷津松之宮の鳥居です。
拝殿
敷津松之宮の拝殿です。
狛鼠
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『古事記』の「根の国訪問」の中に大国主がネズミに命を救われたという逸話があり、これに由来するものと思われます。
なお、狛鼠が奉納されている神社は珍しく、この他には京都の大豊神社にあるとされています。
大黒像
大国主神社の前にある大黒像です。
木津勘助像
敷津松之宮の境内にある木津勘助(きづかんすけ)の銅像です。
木津勘助とは、江戸前期、相模(神奈川県)出身の人物であり、青年の頃より豊臣家に仕え、大阪繁栄の基礎となる水運の開発や堤防を強化して水害を防ぐなど、大阪の土木事業に貢献したことで高く評されている開拓者とされています。
なお、寛永の大飢饉の際には、幕府の米蔵を無断で開放し、その米を飢饉に苦しむ人々に施したことで、流刑あるいは処刑されてしまったそうです。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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